創成川の中に神社があった 屯田防風林とともに生きる人たち
子供達の遊び場だった創成川 こうして生まれた新しい街
屯田兵から受け継ぐまちづくりの心
 

創成川の中に神社があった
   −夢を浮かべて今も流れる
札幌市北区役所市民部総務企画課
新・北区エピソード史(平成15年3月発行)より抜粋
 人が集まる場所だった創成川の閘門
 明治30年代、閘門式運河で世界的に有名なパナマ運河が竣工するよりも前に、創成川には岡崎文吉の手により当時最先端の技術をもって同式の運河が造られていた。茨戸から北6条までの間に八ヵ所に及ぶ閘門が造られ、磯船が一区間進むごとに、門を閉じて水量を蓄えて除々に進むようになっていた。
 現在の太平地区周辺には閘門が三ヵ所あったといわれている。そのうちの一つ、茨戸側から2番目の閘門付近には、太平神社が設立されていた。神社では、五穀豊穣を祝う祭典が毎年9月5日に行われ、相撲、芝居、映画の上映など盛大に催されていた。祭りの最中には出商人(でめんにん)と呼ばれた稲刈収穫作業を手伝う人々を確保したり、未来の花嫁、花婿探しに近隣町村から若者が集まったりと、のどかな光景が見られた。そんな若者の一人であった浅井金蔵(あさいきんぞう)さん、富樫邦男(とがしくにお)さんは「当時、若い人たちはみんな青年会に人っていたんだ」「そのころの青年会では芝居を演じていて、俺らも役者として舞台に上がったもんだよなあ」と目を細める。
 また、神社の横には「太平会館」という公民館も建てられ、太平地区に住む人々の集会場となっていた。閘門は運河機能だけではなく、地域の社交場のような場所として人々の生活に根付いていた。
 太平神社は地域結集の証だった
この太平神社は、1924(大正13)年ころ、「北野神社」として北16条西4丁目にあったものではないかかといわれている。戦前は出征の祈願を行った人もいたようだが、いつしか忘れられ、江南神社の第五代社主山東喜代蔵さんに託された。
 時を隔てて1950(昭和25)年、山東さんは太平地区に神社を建立してもらおうと、太平地区に住む故松岡源一(まつおかげんいち)さんの家を訪れた。源一さんの息子の博(ひろし)さんは「今でもその時のことを覚えていますよ。年の瀬の迫ったころだと思いますが、いきなりご神体を持って来られたんですから。その後神社の本陣を建てるまでの約半年間、ご神体と同じ部屋で寝起きしていたんだ」と笑いながら話す。
 翌年4月、地域の人たちが結結集して、勤労奉仕により太平神社を建立した。神社の運営も、地域の中から総代を数名選出して祭典を切り盛りした。これにより、地域の団結も一段と深まったのではないだろうか。
 しかし、札幌市が政令指定都市となった1972(同47)年、太平神社は社の老朽化に伴い、その役目を終えることとなる。この年の祭りを最後に、篠路神社に合祀(ごうし)され、その短い歴史の幕を閉じた。社は取り壊され、今ではその名残を見つけることはできない。そして、そのころから太平地区も農村から住宅地へと変わっていくこととなる。
 変わりゆくまち、当時の人々への思い
 創成川の風景も、大きく変わっていく。川辺は緑地に整備され、地域の人たちが植えたポプラ並木が成長した姿を見せており、北区を象徴する風景のーつとなっている。しかし、そこに神社があり、人々が集い、地域の社交場のような場所だった閘門のことを知る人は減ってきている。
 また、その閘門を造った岡崎文吉の功績はテレビや本に取り上げられ、環境保全の面から再び評価されている。そのような世界に誇れる技術が地域にあり、そこに住む人々の生活に根付いていたことが忘れ去られていくことに寂寥(せきりょう)の感がある。
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子供達の遊び場だった創成川
1953(昭和28年)創世川の清掃
   −夢を浮かべて今も流れる
札幌市北区役所市民部総務企画課
新・北区エピソード史(平成15年3月発行)より抜粋
 創成川の誕生
 この川は、1866(慶応2)年、幕吏大友亀太郎によって開削された人工川大友掘が始まりといえよう。そのころの大友掘は、開拓者の飲用水、田畑への用水路としての役割を果たしていたほか、生活物資の輸送路としても活用されていた。この大友掘を基礎に、幾度かの改修と掘削を重ね、1895(明治28)年に現在の創成川の流れが出来上がった。この川は、戦後、交通網が発達するまで、札幌市中心部への物流の中心として、大きな役割を果たしていた。
 創成川周辺の戦後のにぎわい
 戦後の復興の中、創成川沿いの北8条付近はいち早くにぎわいを見せるようになり、交番や郵便局、製麻会社などが立ち並んでいた。川の両岸には商店街も形成され、そこに集まる人々で、周辺はいつも混雑していた。ながらかな傾斜の河川敷では、夕方になると一日の労働を終えた馬の体を洗う光景も見られた。また、この付近では、川の両岸を行き来するための簡単な木製の橋が周辺住民の手によりいくつも架けられていた。
 創成川は遊びの宝庫
 戦後の混乱も収まり、人々の生活がようやく落ち着いたころ、北8条付近に住んでいた子どもたちは屋外へ遊びに出されるようになった。最初は、当時まだ珍しかったデパートのエレベーターに乗ろうと中心街まで出かけていたが、やがて飽きがきて、家の近くで遊ぶことが多くなった。集まった子どもたちは、家の周りや川に架けられている何本もの橋を走り回って競争したり、周辺の湿地帯で遊んだりしていた。そのうち、いつしか誰からともなく創成川を遊び場とするようになっていた。当時、その辺りの創成川は、上流にある二条市場や工場の排水などで汚れていたが、下流の北18条辺りまで行くと、水は澄んでおり、子供たちの格好の遊び場となっていた。
遊びのの内容はさまざま。川に飛び込み泳ぎ回ったり、自作の網や一工夫加えた釣り針を使い、数も種類も豊富だった魚を捕ったりしていた。また、木片を集めて舟を作り、誰の舟が一番早く目的の場所まで流れ着くかを競ったりもした。川は、子どもたちにとって遊びの宝庫だった。
 「当時、川下の方にはヤツメウナギがいて、簡単に捕まえることが出来たもんさ。それを待って帰ると、晩酌のおかずになると、うちのおやじはとても喜んでくれたんだよ」と、付近で代々理髪店を営んでいる大川忠昭さんは遊び盛りだったころの自分を思い返しながらこう語る。
 姿を変えた創成川
 現在の創成川は、札幌市の東西の起点として広く知れわたってはいるか、すっかり当初の役割を終え、日ごとにその影を薄くしていっている。札幌の歴史の中で、この川も発展の渦に巻き込まれ、造っては壊し、壊しては造り、何度も姿を変えてきた。子どもたちの格好の遊び場たった北八条から北18条付近は、今では護岸工事が施され、汚れた川のごみを拾いに下りる場所もない。
川岸にたたずんで昔をしのぶにも、両岸の道路は自動車の往来が激しく、川に近寄ることもできなくなっている。「僕が子どものころは、この川が一番の遊び場だったんですけどね・・・」と語る大川さんの表情は、どこか寂しげだった。
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屯田兵から受け継ぐまちづくりの心
1919(大正8)年の屯田地区
札幌市北区役所市民部総務企画課
新・北区エピソード史(平成15年3月発行)より抜粋
 屯田兵の入植から水田地帯ヘ
 屯田――。北海道に住む人々は、この言葉には独特の響きを感じるのではないだろうか。1875(明治8)年に初めて琴似村に入植して以来、屯田兵は道内各地に入植したが、今、札幌市内で屯田の名を町名として残す所は北区の屯田地区のみである。当時、篠路兵村と呼ばれたこの地には、1889(同22)年に220戸、1056人の屯田兵とその家族が入植し、開拓の鍬(くわ)を下ろした。
 屯田兵たちが苦労して開墾を続けたこの地は低湿地帯であり、一度洪水が起こると作物が大きな被害に遭い、離散する人々が後を絶たなかった。1905(同38)年には77戸まで減少したとの記録が残っている。
 そこで、屯田地区に住む人々は地域経済の立て直しと農家の経営安定を目指して造田計画を実施し、約680ヘクタールの水田が完成した。屯田地区には豊かな水田地帯が生まれ、稲穂が広がっていった。
 
 新しいまちづくリヘ
 しかし高度経済成長を背景とした1970(昭和45)年からの国の減反政策や札幌市の急速な発展により、屯田地区にも宅地化の波が押し寄せた。農地が次々と姿を消し、住宅団地が造成され、今では一戸建てやアパートなどが立ち並ぶ住宅街が大きく広がっている。
 まちの様子が一変するにつれて、住民の地域への思いも変わっていった。代々農業を営んできた屯田兵の三代目に当たる坂田文正(さかた ふみまさ)さんには、1972(同47)年に初代屯田連合町内会長となった父親の故坂田勝(まさる)さんの言葉で今も記憶に残っているものがある。「これからは新しい屯田のまちづくりのための屯田兵になろう」。この言葉には、さまざまな県から入植し、力を合わせて原野を切り開いた屯田兵たちのように、屯田兵の子孫の人々と新たに屯田に移り住んできた人々が共に協力し合い、住み良いまちを作っていこうという思いが込められていた。
 この思いは徐々に住民の間に広がっていった。それを示す出来事が1988(同63)年の屯田開基百周年事業。地域住民自らが事前の準備に奔走し、また住民から多くの寄附も集まり、作家遠藤周作氏の講演会や札幌交響楽団の演奏会など数々のイベントが繰り広げられたのである。
 それから15年。現在、屯田連合町内会長を務めている平木行雄(ひらき ゆきお)さんは、まちへの熱い思いをこう語る。「これからは、住民がー丸となってまちづくりを進めていくことがより重要になってくると思います。幸いにも屯田には、屯田太鼓や屯田音頭、屯田みこしといった地域の文化があります。これらの文化を通じてまちへの愛着が深まれば、屯田に住む人たちのお互いの理解も深まるのではないでしょうか。今後も住民の皆さんとともに屯田兵の開拓精神を持ってまちづくりを進めていきたい」
 水田地帯から住宅地へとその姿を変えた屯田地区。この先、まちが移り変わっていっても、屯田兵の開拓精神は脈々と受け継がれていくことだろう。
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屯田防風林とともに生きる人たち
1975(昭和50)年に行われた
屯田防風林の植樹作業
札幌市北区役所市民部総務企画課
新・北区エピソード史(平成15年3月発行)より抜粋
 屯田地区と新琴似地区の境界に伸びる、約3キロメートルの通称「屯田防風林」。これは、強風から農作物を守ろうと、屯田兵がコの字型に自然林を残して作った防風林の一部といわれている。大正時代に入ると、ポプラやヤチダモの木が植えられていった防風林は、風害から農作物を守り、水田のための用水路も作られるなど、人々の生活に欠かせないものであった。
  「秋になるとちょうど防風林を境に、屯田側の田は稲穂の金色が、新琴似側の畑は大根の葉っぱの緑色が一面に広がっているんです。それはきれいだった。私の防風林の原風景ですね」と話すのは、入植三代目にあたる粟生嗣悳(あおう つぐのり)さん。粟生さんによると、昭和三十年代まではそのような風景が見られたという。
 
防風林を憩いの場に
 しかし、屯田地区、新琴似地区が急速に宅地化していくとともに、林の中の自然体系は変わっていた。伸び放題になった下草や析れた枝などの乱雑な風景を嘆く人や、青少年の非行の温床になるのではないかと危ぐする住民たちも出てきたという。
 1974(昭和49)年、町内会や青少年育成委員会、PTAなどが中心となり、林内への遊歩道の造成や、木が欠落している場所へ補植を行って環境美化に努めてほしいと、防風林を管轄していた営林署や市に要望した。翌年には、新琴似・屯田防風林保存育成会を結成し、住民たちの緑のまちづくりに向けての取り組みが始まっていった。そして要望だけではなく、町内会や小中学校の父兄など地域の人たちが営林署とともに、サクラやシラカバの植樹を行っていった。
 地域に住む子どもたちもその思いを引き継ぎ、新琴似北小学校では、1973(同48)年以来ずっと、六年生の児童たち手作りの巣箱を木々に掛け、環境づくりに取り組んでいる。また、地域の人たちの協力を得て、校内には、歴代の子どもたちが調べた植物の採集結果や防風林の歴史などを保管・展示している「防風林の部屋」が設置されている。
 時が遊むにつれ、防風林には遊歩道や広場が整備され、緑の憩いの場にしたいという人々の思いは形になっていった。また、両側の道路と合わせてポプラ通風致地区となり、野生生物との共存を目指した空間として整備が行われ、今では、朝早くから夕方まで地域住民たちが憩う、地域のシンボル的な場所となっている。
 
 これからも共に生きる
 さらに2002(平成14)年には、防風林を囲む住民たちの新しい動きがあった。防風林に隣接する町内会が中心となって「ポプラ通りを守る会」を結成。これは、自然環境を守るためにどうすればよいか、住民たちが自主的に考え、地域に提案していこうというものである。
 「人とのかかわり合いの中で防風林は自然体系が変わってきた。自生のセリや水芭蕉、リスの姿も見えなくなった」と、約四十年間新琴似に住み、自身も毎日、防風林を散策するというポプラ通りを守る会会長の武田良夫(たけだ よしお)さんは話す。武田さんは、「今までは利用するだけだったが、この地域に残る貴重な自然を残していくために、自分たちで考え、自分たちの手で取り組まなくてはいけない」と言葉を続ける。また、防風林に植えられたライラックの木を自分たちの手で育てようという地域の人たちが「リラの木育て隊」を結成し、本の剪定(せんてい)や下草刈りなどを自主的に行っている。
 前述の粟生さんも「防風林は以前の農作物を守るものから、人と自然との共存を考える場へと、その役目は変わったが、地域の共通財産としてこれからも残していかなければ」と話す。このように防風林とともに暮らし、見守心温かい目がある限り、防風林は地域に豊かな自然だけでなく、人と人とのつながりをも与えてくれることだろう。
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こうして生まれた新しい街
昭和22年の航空写真
札幌圏都市計画事業・札幌市屯田東土地区画整理事業
完成記念誌(平成10年3月31日)より抜粋
 屯田の夜明け
 明治政府は明治4年(1871年)札幌に開拓本府を置き、国を挙げての北海道開拓はその緒に着きました。
 開拓使次官黒田清隆の建議によって明治7年(1874年)に制定された屯田兵制度により、この地屯田には明治22年(1889年)北辺の守りと北海道開拓という使命を担い、熊本、和歌山など7県から屯田兵とその家族220戸、1056人が入植し開拓の鍬が下ろされました。
 当時は篠路兵村と呼ばれ、巌しい軍律のもと過酷な自然条件に加え低湿地帯の悪条件のなか、家族とともに不とう不屈の精神で開拓に励む日々がつづきました。
 肥沃な土地であったことから恵まれた年もありましたが、繰返される水害と冷害でこの地を去る人は相次ぎ、戸数も入植当時の三分ノ一に激減した苦難の時代がありました。
 
 米作地帯として発展
 開拓初期は、j自分たちの生命を支える作物を栽培するのが精いっぱいで、主食はといえば、栗・いなきび・裸麦・とうもろこし・そば・馬鈴薯などで、豆類は生活費を得るため売っていたといいます。そのため米飯を食べたいという執念と、疲弊した兵村の農家経済を再建し生活の安定を計るため、先人の英知によって低位地帯の悪条件を逆手にとり、大正4年には造田計画が実施に移され、多くの困難を克服して680ha余の造田事業が完成したわけです。
 稲作の定着で村民の経済は改善され、経営も安定し、以後の長きにわたって食糧の供給にその役割を果たし、水田単作地帯としての発展を見せました。
 
 新しい街作りに向かって
 昭和40年代に入り、稲作技術の向上と食生活の多様化による米の過剰から、昭和45年水田の減反政策が実施され、そ菜、小麦など畑作への転換を迫られます。さらに札幌市の急速な発展により周辺の宅地化か進み、都市開発による用水の不足等も生じ、稲作で栄えた農業は厳しい現実に直面しました。
 屯田地区の住宅地への転換は、昭和30年代後半から民間による宅地開発にはじまり、昭和44年北海道住宅供給公社による屯田団地(34ha)の造成、昭和58年には札幌市による屯田土地区画整理事業(122ha)が施行されるなど、急速に市街化か進んでいきました。
 屯田東地区においても、農業をとりまく厳しい現状及びその将来を展望したとき、代々汗を流して築いたこの土地を宅地造成することについては迷いもありましたが、昭和60年3月46haの特定保留区域への指定を機に、地理的好条件を背景に地域の環境に即応した新しい街づくりへの気運が高まり、昭和63年7月25日、石川寛氏ら地元の有志によって土地区画整理を進めるための世話入会が発足しました。
 世話人会発足の翌年、年号が昭和から平成に変わった平成元年1月28日、第1回地権者総会において世話入会を発起人会とし、仮同意の取りまとめを行った結果、ぼぼ100%に近い同意を得て、多くの不安を抱えながらも土地区画整理事業の実施に向かって最初の一歩を進めました。
 
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